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30年目のフェスティバル 実りのつづく季節 (連載第2回) 室内楽のためのホール

安田真子(音楽ライター/オランダ在住)

週末になると、クロンベルク駅近くの広場に人が集まってきました。目指すのは、コンサートホール『カザルス・フォーラム』です。

サーカスのテントのような形の屋根をしたホールは、日差しを受けて輝きます。近未来的な外観をした現代建築です。

波打つような壁のあるカザルス・フォーラム内装

カザルス・フォーラムは、クロンベルク・アカデミーの所有する一番大きなコンサートホールです。チェリストであり人道家だったパブロ・カザルスにちなんで名づけられ、2022年秋にオープンを迎えました。

館内には、あちこちにカザルスの名言が刻まれており、カザルスの頭像も設置されています。カザルスへの尊敬や愛が表れているようです。

大ホールの客席数は約600。大ホールといっても、一般的なホールのように巨大なものではありません。本来プライベートな空間で楽しまれていた室内楽の持つ『親密さ』という魅力を保つための工夫が施されています。

まず、天井と壁を高くとることで、6000立方メートルの空間がつくられました。3Dサラウンドの音響を体感できるのが自慢です。
さらに、小さい音でも高い音質で客席に届くように、調節パネルを開閉できます。最高の音響を維持し、演奏がベストな状態で客席に届くよう、調整されているのです。

音響はもちろん、快適さも考えられています。1階席には、ステージの臨場感が伝わってくるほど距離の近い座席が多数あり、2階にはリラックスして座れるソファー状の席が用意されています。ソファー席は舞台をぐるりと囲むように、ひとつながりになっていて、1席ごとに番号は振られていますが、区切りはありません。居心地はよくないかも……と思いきや、席幅に余裕があるので、他人同士でもつい挨拶したくなるような心地よい距離感でした。

こちらのホールは、音楽家たちにとって心地よい場所であるように……という点からも考え、さまざまな工夫が施されています。
ひとつの例は、ガラス張りのロビーです。ほとんどの時間を屋内で過ごす音楽家という職業。秋冬に日照時間が短くなるヨーロッパでは、特に太陽の光を浴びる時間が短くなりがちです。
ガラス張りの窓に囲まれたコンサートホールなら、室内にいても太陽の光を感じられます。自然光をできるかぎり多く採り入れるための工夫は、室内の電気を節約し、環境への負担を減らすことにもつながっています。

クロンベルクにコンサートホールを建てることは、クロンベルクアカデミー創設時からの関係者たちの夢でした。
創設30周年を念願のホールとともに、理想的なかたちで迎えたアカデミー。ホール建設において、クロンベルク・アカデミー友の会のメンバーやサポーターなどの支援は欠かせないものでした。出資したサポーターの人々が「クロンベルクにこんな美しいホールができて、びっくりしています」と語り、目を輝かせていたのが印象的でした。

連続して開かれる華やかなコンサート

クロンベルク・フェスティバルの盛り上がりは、週末にかけて頂点を迎えます。

今回から、フェスティバルのメイン公演はカザルス・フォーラムの大ホールで開かれました。以前は市内の教会など、街に点在する会場でコンサートが行われていたことを考えると、カザルス・フォーラムができてから、観客にとっても演奏者にとっても移動がしやすく、フェスティバルの日々がより快適になっています。

愛器を手にするハーデリヒ

9月23日の土曜には、合計で5つの公演が開かれました。

カザルス・フォーラム大ホールでは、ヴァイオリニスト2名による『グラン・デュオ』の公演が開かれました。
出演は、ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)とアウグスティン・ハーデリヒ(Augustin Hadelich)。国際的に活躍する凄腕ヴァイオリニストのふたりです。

前半では、ジャン=マリー・ルクレール、そしてルイ・シュポーアという、存命時にはヴァイオリニストとして世に名を轟かせていた作曲家による2曲が演奏されました。技巧的なパッセージが華やかに繰り広げられます。二人のヴァイオリニストが感覚を研ぎ澄ませてお互いの音を聴き合い、響きを増幅しあうような演奏でした。プロコフィエフ『2本のヴァイオリンのためのソナタ』では、フィッシャーとハーデリヒの絶妙なやりとりに観客は釘付けでした。

息を呑むような鮮やかなヴァイオリン二重奏を聞かせてくれたフィッシャーとハーデリヒ。プログラム後半の2曲目ではなんと、フィッシャーは楽器をヴァイオリンからピアノに持ち替え、フランク『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』をハーデリヒと演奏しました。

アンコールでは、パブロ・カザルス作曲の『ロマンス』を披露。ハーデリヒのヴァイオリンとフィッシャーのピアノで、あたたかく懐かしさのある音楽が響きわたりました。

ハーデリヒの奏でる名器の音色は、特筆すべきものでした。ポーランド出身のヴィルトゥオーゾ、ヘンリク・シェリングがかつて所有していたその楽器は、1744年製のグァルネリ・デル・ジェズ「Le Duc」。倍音の豊かな、明るさの中にあたたかな人間味が感じられる音が、カザルス・フォーラムの空間にたっぷりと響いていました。ヴァイオリンが大好きな人にとっては、素晴らしいホールで名器の音が味わえることは、何よりも贅沢な体験です。

カザルスに捧ぐプログラム


夜9時15分からは、『カザルスからショパンまでー歌うチェロー』と題したコンサートが、カザルス・フォーラムに隣接する学生センター内のカール・ベヒシュタインホールで開かれました。客席数がより少なく、シューボックス型をしたホールです。

公演の主役は、カミーユ・トマ(Camille Thomas)。今、注目を集めているベルギー人チェリストです。

コンサートは、トマ独奏のカタルーニャ民謡「鳥の歌」で始まりました。パブロ・カザルスが平和への想いを込めて愛奏していたことで知られる作品です。イギリスのヴィオリストで作曲家サリー・ビーミッシュ(Sally Beamish)による編曲のチェロ独奏版で、短い曲ながら、ずっしり響く低音から鮮やかなフラジオレットまで駆使して演奏されました。

同公演で主にメロディラインを担う第一チェロをつとめたのも、カミーユ・トマでした。チェロ二重奏、ピアノとのデュオ、さらにチェロ四重奏と展開するアンサンブルを主導しました。
なかでも注目を集めたのは、チェロ四重奏のショパン『前奏曲第4番、15番、20番、ノクターン第20番、ソナタ第2番より「葬送行進曲」』でした。
カミーユ・トマのほか、クロンベルクアカデミーでも2006年からファカルティを務めている名伯楽フランス・ヘルメルソン(Frans Helmerson)先生、同じくファカルティのウォルフガング・エマヌエル・シュミット(Wolfgang Emanuel Schmidt)先生、そして同アカデミー在学中のフィリップ・シュベリウス(Philipp Schpelius)。豪華な師弟共演です。

カミーユ・トマの使っている小ぶりなチェロは、1730年製のストラディヴァリウス『フォイアマン』でした。こちらの楽器は、日本音楽財団から貸与されている楽器です。トマは、パワフルな低音からくっきりと鮮やかな中高音まで、見事に引き出していました。

休憩なしの1時間半に及ぶコンサートでしたが、明るいエネルギーに溢れるポッパー『ハンガリー狂詩曲』で、華やかなフィナーレを迎えました。観客の盛り上がりも特別です。

ショパンと親しかったチェリストのオーギュスト・フランコーム(Auguste-Joseph Franchomme)の技巧的なチェロ二重奏作品も、トマとシュミット先生によって演奏されました。
フランコームは、トマの使用楽器を一時的に所有していた19世紀のチェリストでもあります。ショパンのそばで生きた演奏家のチェロだということが、トマによって聴衆に伝えられ、コンサートをさらに盛り上げました。

多数あるコンサートの中でも、音楽祭のテーマであるパブロ・カザルスとその言葉「Human being first」にふさわしい企画でした。

ハンガリーの巨匠共演

翌日9月24日の日曜にも、フェスティバルの目玉となる公演が用意されていました。

そのひとつは、ミクローシュ・ペレーニ(チェロ)と同アカデミーの主要ファカルティでもあるアンドラーシュ・シフ先生(ピアノ)のデュオ公演。
若い頃から共演を重ね、数々の素晴らしいレコーディングを残してきたハンガリー巨匠ふたりの共演は貴重な機会で、チケットは発売直後に完売した人気公演でした。その際、クロンベルク友の会の会員は、一般発売よりも前にチケットを購入することができました。

強張った面持ちで登場したペレーニと、リラックスした表情のシフ先生。
曲目は、ブラームスのチェロとピアノのためのソナタ第1番、そしてシューベルトのアルペジョーネ・ソナタでした。休憩を挟んで、ベートーヴェンのチェロとピアノのためのソナタ第3番が演奏されました。

演奏中、ペレーニは、しばしば目を瞑って演奏し、時折ふっと微笑みを見せます。チェロの弦に弓がぴったりと吸いついているかのような、滑らかこの上ないボウイングは健在です。弓の元部分、5〜10cmの見えないくらいの毛も自在に操っていました。

ホール全体を包み込むようなチェロの低音と、ピアノの澄んだ高音のメロディーの連なりがとりわけ美しく響きます。シフ先生が奏でるベーゼンドルファー社のピアノの音は力強く、確かさを感じさせるものでした。総じてトリルの装飾音は控えめで、着実な歩みを感じさせるテンポの運びと揺るぎない世界観は、聴く人に確かな満足感を与えてくれます。削ぎ落とされた表現と、楽器が体の一部のようになった境地からくる自由さ、そして共演を重ねてきた二人の音楽家の密な音のやりとりが感じられました。

半世紀近くにわたって、音楽に身を捧げてきた巨匠ふたり。円熟の演奏に、あたたかい歓声と拍手が贈られました。
なお、アンコール曲はベートーヴェン『モーツァルト『魔笛』より「愛を感じる男たちに」の主題による変奏曲』。朗らかな空気の締めくくりでした。

左からフィリップ・シュペリウス、ジュリア・ハモス、ミンジ・キム、エドワード・ルエンゴ

日曜の最終公演を飾ったのは、ベヒシュタインホールでの若手チェリスト4名とピアニストによる『カザルスへのオマージュ』公演でした。

出演者はいずれも20代前半。ミンジ・キム(Minji Kim)、エドワード・ルエンゴ(Edward Luengo)、フィリップ・シュペリウス(Philipp Schupelius)、そしてピアニストのジュリア・ハモス(Julia Hamos)でした。すでにアジアやヨーロッパ、アメリカで既に華々しいキャリアを積み、クロンベルク・アカデミーでも学び、演奏経験の豊かな若手が揃いました。

それぞれのソロ演奏に加え、ポッパーの『3本のチェロとピアノのためのレクイエム』を披露。同じチェロでも演奏スタイルや音楽の捉え方、音色の違いが顕著ながら、積極的に自分らしさを出し、オープンな音楽づくりを目指す姿勢が伝わってきました。

演奏を通じた支援活動

クロンベルク・アカデミーでは、音楽を取りまく世界にポジティブな変化を起こすための試みが絶えず生み出されています。
今回の音楽祭では、『Fair Play(フェア・プレイ)』という新しいプロジェクトが産声をあげました。
『フェア・プレイ』は、アカデミー在学中の学生たちが自ら支援したい団体や活動を選び、演奏を通して支援金を募り、サポートするという企画です。

日曜午前11時からのコンサートでは、演奏の前にDmytro Udovychenko(ヴァイオリン)が以下のように語りました。

「今、私の国であるウクライナは大変な状況にあり、ここで音楽をできることを心から感謝しています。私はこのコンサートを通して、『フェア・プレイ』という企画に参加し、故郷のウクライナ・ユース交響楽団(Youth Symphony Orchestra of Ukraine)を支援したいと思っています。よろしければ皆さんもご寄付をお願いします」

聴衆は、コンサートのチケットを購入し、演奏を聞くだけでも『フェア・プレイ』の企画に加わっています。公演のプログラムには、寄付金の振込先が掲載されているので、個人的に支援金を送って応援することもできました。

室内楽のステージと客席という顔の見える距離で、演奏家が支援を表明することで、具体的なビジョンのある支援活動が広がっていきます。

さて、祝祭感あふれるコンサートづくしの週末が終わると、フェスティバルのもうひとつの要となるマスタークラスが始まります。

次の記事では、一連のマスタークラスの様子をレポートしていきます。お楽しみに!

(つづく)

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