30年目のフェスティバル 実りのつづく季節 (連載第3回) 立ち止まり、深呼吸する場所
安田真子(音楽ライター/オランダ在住)
クロンベルク・フェスティバルでは、世界的な演奏家のコンサートと併行してヴァイオリンとヴィオラ、もしくはチェロのマスタークラスが開催されています。
フェスティバルを主催するクロンベルクアカデミーは、もともとチェロのマスタークラスから始まりました。30年前の創立当初、ムスティラフ・ロストロポーヴィチなどの名だたる巨匠が登場し、公開マスタークラスで優秀な若手チェリストたちを指導。
ロストロポーヴィチやヤーノシュ・シュタルケルなど、歴史に残る音楽家の登場や、コンサートなどの企画の魅力があいまって、世界じゅうから『チェロの聖地』として注目を集めてきました。
現在、クロンベルクアカデミーは、30年の年月をかけて歴史を積み重ね、学生センターや音楽ホールという恒久施設を持つまでに発展しました。
フェスティバル誕生のきっかけから現在に至るまで、各楽器のマスタークラスは、クロンベルクにとって欠かせない教育的要素でありつづけています。
世界の精鋭が集うマスタークラス
9月25日。クロンベルクアカデミーの周辺には、以前に増して活気があふれていました。その理由は、翌日にひらかれるマスタークラスのオーディションを受ける候補生の姿があったからです。
今年も、欧州のみならずアジアやアメリカなど世界20カ国から音楽を志す若者たちが集まりました。その数、およそ170名。小さな町の雰囲気をがらっと変えるのに十分すぎる人数です。
クロンベルクアカデミーでは「ヴァイオリン・ヴィオラ」部門と「チェロ」部門のマスタークラスが1年おきに開かれています。2023年はヴァイオリン・ヴィオラの年で、9月26日から10月2日の1週間にわたって開催されました。
指導にあたるファカルティ(教授)は、以下の通りでした。
・ミハエラ・マルティン先生(ヴァイオリン)
・コリヤ・ブラッハー先生(ヴァイオリン)
・ミリアム・フリード先生(ヴァイオリン)
・ヴァディム・グルーズマン先生(ヴァイオリン)
・今井信子先生(ヴィオラ)
・タベア・ツィマーマン先生(ヴィオラ)
いずれも国際的に活躍するソリストであり、欧米を代表する大学や音楽院で指導する演奏家ばかりです。
*
さて、マスタークラスを受講するための手順を確認してみましょう。まず、レッスンを受けたい教授を選び、申込金を払って応募を済ませます。一次選考を通過した人には、現地でオーディションを受けるチャンスが与えられます。
現地オーディションを通過すれば、翌日から3回の個人レッスンを受けることができます。
オーディションで落選しても、引き続きクロンベルクに滞在し、他の受講生のレッスンを聴講することが可能です。さらに、現地オーディションを受けた人は皆、フェスティバル期間中のコンサートをいくつも無料で聴くことができます。
クロンベルクに集まった若者たちには、レッスンの受講もしくは聴講、コンサートの鑑賞を通して、今年のクロンベルクでしか学べないことを習得するチャンスが用意されています。
夢のような環境の先へ
ヴィオラ科の今井信子先生は、クロンベルクアカデミーのヴィオラ科創設時である2007年から指導を始めた最古参の教授のひとりです。
今年のオーディションを通過した受講生は合計で10名。20歳前後のアジア人、特に中国人の参加が大部分を占めました。
レッスン内容は、学生によってさまざまです。音楽的な表現のほか、演奏中の立ち方や音階の弾き方、弓の持ち方などの基礎について指導を受ける学生もいました。
音楽院で難しい曲に取り組むレベルの学生たちがあえて基礎のテクニックを見直すと聞くとちょっと意外に思えますが、これが演奏スタイルの根本からの改善につながり、演奏者としてのレベルアップにつながります。
今井先生のクラスは、終始笑顔の絶えない和やかなレッスンでしたが、受講生はもちろん、聴講生たちから感じられる熱気もただならぬものでした。
指導中、今井先生が楽器を構えて弾きはじめると、皆がその姿を食い入るように見つめます。彼らの真剣な眼差しや腰を浮かせるくらいの姿勢から「少しでも多くのことを吸収したい」という思いが伝わってきました。
1日目のレッスンを終えた今井先生に、初日の感想を聞いてみました。
「色々な学生がいて、水準が高かったですね。ヴィオラ弾きになるという覚悟ができている人は全て採りましたが、個性もリアクションも違います。この3日間でどこまでできるかというのはチャレンジですし、責任もあります。次にいつ会えるかも分かりませんし……まず、何を考えているかを知るのが初日でした」
今井先生は長年、アメリカやドイツ、スペイン、スイスなど、さまざまな音楽院で指導にあたり、多くの学生と出会いを重ねてきました。
そのような中で、今井先生が思う『クロンベルクアカデミーで学ぶことの特長』とは何でしょうか。
「やはり室内楽だと思います。 他の学校では、素晴らしいヴァイオリニストがいなかったりチェロが足りなかったりして、いびつになってしまうけれど、クロンベルクには一定水準の人が来ているので、室内楽を演奏したときにとても良いものができます」
自然光を採り入れ、木材を贅沢に使ったレッスン室を見わたして、今井先生はこう付け加えます。
「今、クロンベルクにやっとこのような『器』ができ、夢のようです。この環境とここにいられる特権に感謝した上で、勉強をしてもらえればいいですね。ここから今後、どうなっていくかは大きな課題です」
音楽を共有する尊い時間
今回のフェスティバルでは、チェロの巨匠パブロ・カザルスのアニバーサリーイヤーとして、『Human being first』というテーマが掲げられました。
今井先生は、かつてパブロ・カザルスの指揮でオーケストラを弾いた体験を思い返して、こう語ります。
「カザルスは神様のような存在で、 かなりのお年でしたが、カラヤンとは違う種の偉大さがありました。政権などの権威に反対し、人を愛するという人間として根本のところをしっかりと持っていた人なので 、安心でき、尊敬できると感じました。そのような人にリーダーになれる資格があるのだと思いますし、彼の言葉が意味を持つのだと思いました。
合奏では、まず指揮者としてのカザルスの存在があって、私たちはその動きを見てポンと出て、全体の波のような動きに乗っていきました。彼はただ、その波を誘導していただけでした。
オーケストラには、現在ではカーティス音楽院で指導しているような素晴らしい若手が揃っていました。個性と音楽性のある人たちの集まりですから、カザルスが合図をすれば、あとは彼の存在と動きに合わせるだけだったのです。その中では、いつも弾けない難しいところが弾けてしまう。すべての動きを皆が感じていて、 大きなインパルスがある。『音楽が流れていく』というのはどういうことなのかを理解しました。ただ合わせるのではなく、その先に流動性があって、少しずつ変わっていける、という可能性を体感したのです」
今井先生がカザルスとオーケストラで共演して感じとったことは、今でも影響を与え続けています。
クロンベルクアカデミーの特徴のひとつは、ファカルティ(教授)と学生が共演し、一緒に音楽をする機会があることです。半世紀以上前のカザルスと今井先生のように、巨匠と学生の出会いからは、言葉では捉えきれない学びが生まれるのではないでしょうか。
今井先生の体験から時間が経っても、音楽家が成長する上で大切なことは変わりません。
「感受性を大事にすることが大切ですね。 学生が何を持っているかを理解し、引き出すのが私たちファカルティの役目だと思います。
音楽をする時間というのは、尊いものです。若い人たちと音楽をシェアできるというのも夢のような話です。とにかく少しでも先に行くということが私たちの使命なのだと思います。
あとは、美しいものを見て感激する心を持つこと。その機会を与えられたとき、どう受け止めるかも大切です。私が学生としてプエルトリコに行き、カザルスの指揮するオーケストラに接したとき、このような音は聴いたことがないなと思いました。渡米したばかりの20代で、英語もままなりませんでしたが、そこから道がひらけて行きました。あの経験は未だにフレッシュに感じます。当時は、知らないことがたくさんありましたね」
音楽の大先輩とこれから花開く若手の出会い。クロンベルクでは毎年、貴重な巡り合いのための空間と時間が用意されています。
立ち止まって考えるための場所
多くの学生にとって、クロンベルクアカデミーのマスタークラスは大御所の演奏家に指導を受け、演奏家として成長し、次のステップに進むためのひとつの通過地点かもしれません。しかし、クロンベルクで得られるものは、それだけではないようです。
忙しい都会を離れ、緑あふれるクロンベルクに来ると、立ち止まって深呼吸し、考える時間があります。
現代において、夢を叶えた大先輩たちと出会い、自ら考えるチャンスを得て、感受性を豊かにして体験する、ということには大きな価値があります。だからこそ、世界中から多くの学生がクロンベルクに集まってくるのかもしれません。
(第4回につづく)