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30年目のフェスティバル 実りのつづく季節 (連載第5回) 舞台と客席がつながる瞬間

安田真子(音楽ライター/オランダ在住)

公開リハーサルの熱気

コンサートや公開リハーサルのためにホールに集う聴衆には音楽家や学生も混じっている

クロンベルク・フェスティバルの魅力は、世界的な演奏家たちのコンサートだけではありません。いつもは公開されていない演奏のレッスンや、コンサートのためのリハーサルを聴講できる貴重なチャンスも数多く用意され、多くの音楽ファンを惹きつけています。

フェスティバル期間中のある日、クロンベルク・アカデミーの学生センター内のベヒシュタインホールで、弦楽四重奏の公開リハーサルが開かれました。

平日の午前中にもかかわらず、若者から年配の方まで40人以上が集ったホール。静けさと熱気が満ちた空間で、いよいよ公開リハーサルが始まります。

ほどなくして、4人の若い音楽家たちが舞台に姿を現しました。普段着で、コンサート本番よりもずっとリラックスした表情を浮かべています。

今日のリハーサル曲目は、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲『アメリカ』です。聴衆は、合奏を重ねるごとに磨きをかけられていく演奏はもちろん、音楽家たちのやりとりをひとつも聞き漏らすまいと熱心に聞き入ります。

余裕を持って練習を終えた4人は、リハーサルの最後に、コンサートと同じように一曲を通して演奏して聞かせてくれました。見事な演奏が終わると、自然と拍手が巻き起こります。

筆者の隣に座っていた男性が感極まった様子で「素晴らしかったですね!」と話しかけてきました。

クロンベルクの地元民であるこの男性は、近所の友人と誘い合わせてリハーサルに参加したと言います。

「僕の娘がチェロを始めたのがきっかけで、クロンベルク・アカデミーに足を運ぶようになりました。来てみたら、とても楽しくて。数年前から通っているから、今日チェロを弾いていたサンティアゴ・カニョン=ヴァレンシアのように、ここに在学していた若い演奏家のことはよく知っています。彼のような世界的な音楽家は、フェスティバルに合わせてクロンベルクに戻ってきて成長を見せてくれる。嬉しいですね」

クロンベルク・アカデミーの学生は、技術的には完成しているプロの音楽家であっても、まだ20代で成長過程にある若者ばかりです。そのため、聴衆にとっては、彼らの素顔に触れ、一人ひとりの変化や成長を感じるという喜びも感じられる場所なのです。

有名ヴァイオリニストが次々に登場

ハイドンの協奏曲を明るく豊かに聴かせたアウグスティン・ハーデリヒ(Vn、中央左)

9月25日の夜。週の始まりの月曜日にもかかわらず、クロンベルクのカザルスフォーラムは、コンサートを目当てに集まる人々で賑わいを見せました。

この日の人々のお目当ては、ソロ・ヴァイオリニストたちの協奏曲を連続で聞けてしまう2つのコンサートでした。

18時半から開かれた公演では、アウグスティン・ハーデリヒ(ヴァイオリン)がハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第1番』を演奏。

2公演目には、クロンベルク・アカデミーで指導にもあたるクリスティアン・テツラフ(ヴァイオリン)が登場し、シューマンの『ヴァイオリン協奏曲』を披露しました。

オーケストラは、ロビン・ティチアーティ指揮のヨーロッパ室内管弦楽団でした。

とりわけ印象的だった2公演目のタイトルは『Lebenswerk』、直訳すると「ライフワーク」です。

ベルリオーズ『「ロメオとジュリエット」より愛の情景』のオーケストラ演奏の後、クロンベルク・アカデミー校長のライムント・トレンクラーたちが舞台に登場し「パブロ・カザルス賞」の短い授賞式も行われました。

クロンベルク・アカデミーにおけるパブロ・カザルス賞の正式名称は『よりよい世界のためのパブロ・カザルス賞』です。

ドイツ・ケルンの投資会社が創設した賞で、毎年一人の音楽家を対象に授与されています。カザルスの生前の配偶者だったマルタ・カザルス・イストミンさんを審査委員長に据え、音楽家としての際立ったキャリアと社会との関わりを持つ音楽家を対象に、毎年贈られている賞です。

代わりに賞を受け取ったクリスティアン・テツラフ(Vn、写真左から2番目)とターニャ・テツラフ(Vc、左から3番目)

今年は、2022年に亡くなったピアニストのラース・ヴォーグトが「ラプソディー・イン・スクール」というプロジェクトに際して同賞を受賞しました。

受賞者が亡くなっていることから、クリスティアン・テツラフとターニャ・テツラフ(チェロ)の兄妹が代わりにトロフィーを受け取りました。

カザルス・フォーラム前に設置されている炎のようなモニュメントと同じ形のトロフィーが手渡されたあと、テツラフ兄妹がデュオを披露。曲目は、コダーイの『ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲』です。無駄を削ぎ落とした演奏には、ほとばしるような勢いがあり、圧倒的でした。

未来の演奏家たちが熱視線を注ぐステージ

シューマンの協奏曲を弾いたクリスティアン・テツラフ(Vn)

シューマンのヴァイオリン協奏曲は、シューマンが同時代の若手ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムの演奏に魅了され、数日で書き上げたといわれている情熱のこもった作品です。この日、独奏のクリスティアン・テツラフは、この作品特有のしなやかさや鮮烈さを生かしながら、人間らしい魅力が滲み出る演奏を聴かせてくれました。

この日の客席には、20代前後の若い人たちも数多く見られました。同日の早い時間にヴァイオリン・ヴィオラのマスタークラスの現地オーディションが開かれ、マスタークラスオーディションの合否に関わらず、コンサートに招待してもらえる仕組みになっているので、たくさんの学生がクロンベルクに集まっていたのです。その中には、日本人の受講生たちの姿もありました。

終演後、若者たちの満足そうな興奮冷めやらぬ表情を見ていると、こちらまで嬉しくなってきます。

クロンベルク・アカデミーでは、レッスン室だけではなく、コンサートホールでも学びが用意されています。心の中に響きつづけるような演奏という経験が生まれ、次世代に引き継がれていく場所だといえるでしょう。

支援者が囲む音楽家の輪

左からズーカーマン(Vn)、岡本(Vn)、フォーサイス(Vc)、スウェンセン(Va)、モハメッド(Va)

翌日9月26日の18時半からは、ちょっと特別な公演が開かれました。クロンベルクアカデミーを支援するサポーターだけがチケットを購入できる『クロンベルク友の会限定コンサート』です。

まずステージに姿を現したのは、ベテランのヴァイオリニストであるピンカス・ズーカーマンと、クロンベルクアカデミーのディレクターを務めるフリードマン・アイヒホルンでした。

ズーカーマンが生前のパブロ・カザルスに出会った時のエピソードを語った後、ヴィオラとチェロのデュオという珍しい編成の作品であるベートーヴェン『二つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲』を演奏。ズーカーマンの共演者は、華やかな衣装を身にまとったアマンダ・フォーサイス(チェロ)でした。

続いて演奏されたのは、モーツァルトの弦楽五重奏曲第4番。

第一ヴァイオリンは、楽器をヴァイオリンに持ち替えたズーカーマン。その隣には、クロンベルク・アカデミー卒業生である岡本誠司が第二ヴァイオリンとして並びました。

ヴァイオリニストの岡本誠司は、2017年に初めてクロンベルク・アカデミーのヴァイオリン・マスタークラスに参加。その後、2019年にクロンベルクに舞い戻り、2024年までの5年間にわたってクロンベルク・アカデミーでアンティエ・ヴァイトハース(ヴァイオリン)に師事しました。

第二ヴィオラを務めたシンディ・モハメッドも、2020年まで同アカデミーでタベア・ツィマーマンに師事したクロンベルクの卒業生です。モハメッドも、室内楽やオーケストラで引も切らないソリストとして国際的に活躍しています。

一方で、第一ヴィオラのニコラス・スウェンセンは、2023年に同アカデミーのプロフェッショナル・スタディコースに入学したばかりの新入生。モハメッドと同じツィマーマンに師事し、ヴィオリストとしてだけではなく指揮者としても成長を続ける注目の若手です。

幅広い世代の音楽家たちは、ホールに詰めかけたアカデミーの積極的なサポーターから愛情のこもった拍手を浴びていました。

新しいホールで祝杯を交わすサポーターたち

コンサートの休憩中には、スパークリングワインがふるまわれました。友の会メンバーやその友人たちは、カザルスフォーラムならではの開放感たっぷりのガラス張りのロビーやテラスで、たった今鑑賞したばかりの演奏や出演者について語り合います。いかにもフェスティバルらしい、高揚感にあふれる空間です。

ロビーの一角には、カザルスフォーラムのホール建設プロジェクトを支援したサポーターのためのスペースも用意されていました。ホールが完成してから初めてのフェスティバルだったこともあり、支援者たちは改めて祝杯を交わし、喜びを分かちあっていました。

演奏会が開かれ、聴衆が客席を埋め、音楽家が舞台で演奏をすることで初めて息を吹き込まれるコンサートホールという建物。細部にまでこだわりの光るホールを見渡して、満足げな表情の人々が多くいたのは、単なる聴衆としての喜びだけではなく、「理想的なコンサートホールの誕生に関われた」という達成感や充足感によるものだったようです。

ホールを満たすピアノトリオの響き

左からグルツマン(Vn)、コンソンニ(Pf)、コベキナ(Vc)

プログラム後半には、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲第1番が演奏されました。

このピアノトリオ作品は、とりわけピアニストにとって難曲として知られる作品です。この夜、ベーゼンドルファー社製の楽器で同曲をパワフルに弾きこなしたのは、1997年生まれのイタリア人ピアニストのマルティナ・コンソンニでした。

コンソンニは、同アカデミーで2021年からアンドラーシュ・シフによる『若いピアニストのための演奏プログラム』というコースに師事しています。さらに、今年のフェスティバルの特別なプロジェクトのひとつである『フェア・プレイ』を通して、コンソンニはウクライナのユース・シンフォニーオーケストラを支援しました。

ヴァディム・グルツマン(ヴァイオリン)とアナスタシア・コベキナ(チェロ)は、二人ともチャイコフスキーの祖国であるロシアで研鑽を積んだ音楽家です。グルツマンはウクライナ生まれで、コベキナはロシア生まれ。ウクライナでは、2022年2月に始まった戦争が続いています。

グルツマンの自在で闊達なヴァイオリンの歌声は、演奏を鮮やかにリードしました。一方で、かなり力強く鳴るピアノを背に、深い精神性と確かな存在感のあるチェロを聴かせたコベキナにも注目が集まりました。彼女もアカデミーの卒業生です。

国際的に最高水準の演奏を追い求める演奏家たちが微笑みを交わすカザルスフォーラムの舞台では、世界を臨むスケールの大きな演奏が繰り広げられていました。

コンサートの帰り道、フェスティバルのボランティアとして出演する演奏家たちの送迎を担当するサポーターに出会いました。自家用車を使ってホテルとコンサートホール間の送り迎えをする役割を担うこちらのサポーターは、クロンベルクのことをよく知る地元の熱心な音楽ファンでした。

「音楽祭の期間中は、いつものクロンベルクの町とは全く様子が違います。特別な雰囲気で、まるで町全体が振動しているみたいに感じられるんですよ」と嬉しそうに微笑む彼女。

ホールから町全体に伝わる音楽のエネルギーを生み出すクロンベルク・アカデミー。音楽家だけではなく、たくさんの人が聴衆や学生、ボランティアやサポーター、パトロンとして関わるからこそ、世界へ響きわたる音楽の発信地でありつづけることでしょう。

<おわり>

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