30年目のフェスティバル 実りのつづく季節 (連載第1回) 待ち望まれたコンサートホールで
世代がつなぐ音楽
安田真子(音楽ライター/オランダ在住)
ヴィクトリア公園にたたずむ像『パブロ・カザルスへのオマージュ』
ドイツの大都市フランクフルトから電車に乗って約20分。クロンベルク駅の単線ホームに降り立つと、森の匂いが混じった風が吹いてきます。クロンベルクに来るのはまだ二度目であっても、どこか懐かしく、故郷に「帰ってきた」ような感覚がする場所です。
弦楽器とピアノの精鋭たちが学ぶクロンベルク・アカデミーは、そんな穏やかな町にあります。
フェスティバルの特別な13日間
夏の気配が色濃く残る9月下旬、クロンベルクには祝祭的な雰囲気が漂います。そのわけは、クロンベルク・アカデミー主催の音楽祭『クロンベルク・フェスティバル』。2023年は13日間に計26公演が行われ、世界的な音楽家たちによるコンサートやマスタークラスなどが開催されました。
世界中の音楽シーンで活躍する第一線のアーティストが集まり、ここでしか聴けないプログラムばかりなので、楽器フェアなど国際的なイベントの重なる季節であっても、国内外から多くの人がクロンベルクを訪れます。
今回から複数回に分けて、クロンベルク・フェスティバルで筆者が見聞きしたことや印象的なシーンをお伝えしていきます。
カザルスの理念が息づく場所
クロンベルク・アカデミーの裏手には、緑あふれる州立ヴィクトリア公園が広がっています。そこに足を踏み入れるとすぐ、大木に囲まれた芝生の広場にある印象的なモニュメントが目にとまります。
等身大よりも少し大きいくらいの銅像は、チェロを抱きかかえて天を仰ぐ男性の姿をしています。タイトルは『パブロ・カザルスへのオマージュ』。実はこちら、2013年にクロンベルク・アカデミー設立記念日に寄せて設置された彫刻作品です。
カタルーニャ生まれのチェロの巨匠であり、人道家だったパブロ・カザルス(Pablo Casals)。カザルスは、音楽家である以前に人間としてどうあるべきか、生涯をかけて自他に問いつづけました。
2023年のクロンベルク・フェスティバルでは、『まず人間であれ(A human being first)』というカザルスの言葉が、音楽祭のテーマに掲げられました。
クロンベルク・アカデミーは、1993年の創立時からカザルスの人道家としての思想を理念のひとつとして据え、運営されています。
創立30周年を迎え、アカデミーはフェスティバルでカザルスのメッセージを発信し、音楽でよりよい世界を作る決意を改めて表明しました。
バッハで現代曲を挟む「バッハ・プラス」
鐘塔が目立つクロンベルクの聖ペテロ・パウロ教会
フェスティバルの3日目である9月23日、クロンベルク旧市街の聖ペテロ・パウロ教会でコンサートが開かれました。会場は70人も入らないほどの小さな石造りの教会です。開演20分前に足を踏み入れると、すでに人々がぎっしり詰めかけていました。
この日の公演は、J・Sバッハの無伴奏チェロ組曲に現代の作曲家の曲を挟みこむプログラムの『バッハ・プラス』シリーズの第3回目。ハンガリーのチェリスト3人が入れ替わりでソロの演奏を披露しました。
ハンガリーの三世代がつなぐ音楽
最初に登場したのは、ラースロー・フェニェー (László Fenyö) 。教会のステンドグラスを背景に、祭壇の中央でチェロを構えたフェニェー。バッハの無伴奏は、チェリストの旧約聖書ともいわれる大切なレパートリーです。1975年生まれで指導者としても活動するフェニェーは、第2番のニ短調の暗さのなか、光をもって重厚な音色でチェロを響かせました。
入れ替わってさっそうと現れたイルディコ・サボー (Ildikó Szabó)。サボーはクロンベルク・アカデミーで学んだハンガリーの期待の新星です。しなやかに大きく、ときにユーモアたっぷりにクルターグの音楽を奏でます。その演奏は、肩の力が抜けていて自然体。決して飾らず、芯のある人柄が音楽から滲み出てくるかのようです。
作曲家クルターグは、1926年のルーマニア生まれのハンガリー人作曲家。現代のプレイヤーたちとのつながりも強く、この日演奏された5曲には、サボーとペレーニにそれぞれ献呈された作品が含まれていました。
教会にバッハの第6番を響かせたペレーニ
人目のチェリストは、ハンガリーの巨匠として国際的に尊敬を集めているミクローシュ・ペレーニ (Miklos Perenyi) です。
周囲を見回すようにしてステージに現れたペレーニは、愛器を構えるやいなや、目を閉じてバッハの音楽世界に深く入り込んでいきました。その姿は求道者のようであり、聴き手を遠くに導く存在のようです。
ペレーニは楽器に寄り添いながら、滑らかに弓を運びます。波立つことがほとんどない演奏姿からは窺い知れないほど豊かな表現を音にこめ、天界を思わせる第6番の響きを聞かせました。
コンサートが始まる前、教会の外観を見て回っていると、建物の一角からバッハの無伴奏第6番のプレリュードをさらう音が聞こえてきました。それは、他ならぬペレーニが開演直前まで練習している音でした。
今まで数えきれないほど演奏してきたはずの曲を、寸前まで練習するということ。痛切なまでに作品を敬い、音楽に真摯に向かう姿勢が見えるようでした。
すべての演奏が終わり、出演者たちが教会の祭壇中央に登場すると、観客は総立ちになりました。30代、50代、そして70代のハンガリー人チェリスト3人に拍手が贈られます。お互いに目を合わせて微笑む3人。それぞれ違うタイプの演奏家ですが、内面で静かに燃える独特の炎のような力強い表現力や、虚飾がないのびやかな歌い方が、ハンガリーのチェリストの間で引き継がれているように感じられました。
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それでは、旧市街にある教会から駅に向かい、クロンベルク・アカデミー校舎と室内楽ホール『カザルス・フォーラム』へと坂道を下っていきましょう。ソワレの開演はもうすぐです。
(次回につづく)