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30年目のフェスティバル 実りのつづく季節 (連載第4回) 巨匠から次世代へ伝播していく情熱

安田真子(音楽ライター/オランダ在住)

9月26日の午後、クロンベルク市民ホールの一室を訪ねると、ヴァイオリンのミリアム・フリード(Miriam Fried)先生がマスタークラスの指導にあたっていました。

1946年ルーマニア生まれのフリード先生は、戦後から現在にいたるまで演奏や指導で活躍してきた伝説的なヴァイオリニストのひとりです。

フリード先生は幼少時から才能を見出され、ジョセフ・ギンゴールドやイワン・ガラミアン、アイザック・スターン、ユーディ・メニューイン、ナタン・ミルシテインら、名だたるヴァイオリンの巨匠から指導を受けた経験があります。

初めて参加した国際コンクールであるパガニーニ賞(1968)で最高賞を勝ちとり、続くエリザベス女王国際ヴァイオリンコンクール(1971)でも優勝。以降、ソロや室内楽で華々しく活躍しました。

現在では、アメリカ・ボストンにあるニューイングランド音楽院と出身校でもあるインディアナ大学で指導にあたっています。

「素晴らしいヴァイオリニストというものは、最も的確に自分自身を聴くことができる人です」

「20世紀の人々には、テクニックの精密さへの強迫観念があります。ディティールに集中しすぎていると言えます」

緊張した面持ちでレッスンにのぞむ受講生たちに、笑顔を交えながら、はっきりとした口調でアドバイスをするフリード先生。鋭い言葉からは、半世紀以上にわたるキャリアで培われてきた深い知識と豊かな経験が、熱を帯びて伝わってきます。

違いこそが音楽を興味深いものにする


©Andreas Malkmus

各地で指導を続けてきたフリード先生は、現代の若いヴァイオリニストを取り巻く状況について、こう語ります。

「一般的に、ヴァイオリン演奏のレベルは高くなっていると思います。平均的な演奏水準は、15〜20年前の平均的なヴァイオリン奏者よりも間違いなく上です。

しかし、傑出した非凡なヴァイオリニストはごく少数で、今後もそれは変わらないでしょう。トップは常に排他的である必要があるのです」

フリード先生がクロンベルクで指導にあたるのは、5年ぶりでした。異なる環境から集う学生に出会う中で、一人ひとりの『違い』がもたらす豊かさを感じたと語ります。

「すべての人が人間として同じ感情を持っていると私は考えます。その一方で、私たちはそれぞれの文化的背景において、社会的に受け入れられる方法で感情を表現するようにと教えられて育ちます。そのことは、私たちが何を考え、どのように役割を果たし、どう感情を表現するかに関わってきます。

音楽は、楽曲の感情的な風景を伝えるための手段です。文化的な背景が違えば、異なるアプローチが生まれます。その違いこそが、音楽をより興味深いものにしていると思います。

生徒たちには『もし皆がまったく同じように演奏するのであれば、コンピューターに演奏をプログラムし、電源を入れるだけでいいですね』といつも言っています。それなら誰も練習する必要はありません。

ある作品を演奏するための正しい方法は、ひとつではありません。ありがたいことですね」

音楽家として社会の一部になる

©Andreas Malkmus

フェスティバルは、さまざまな文化的背景を持つ音楽家の交流の場でもあります。演奏家、そして聴衆にとって、音楽祭に参加することは、どのような意味を持ちうるのでしょうか。

「さまざまな場所から来た人たちと出会い、多様なアプローチを理解すれば、自分にとって良いものとそうでないものを選ぶうえでの幅が広がります。でも、それは必ずしも求められることなのでしょうか。良いことだとは思いますが。

今の世の中は、他人というものを基本的に疑っていて、お互いにうまく受け入れることができていない状態です。

相手を知れば知るほど、疑念というものは薄れていきます。ですから、混ざり合えば混ざり合うほどいいのです。

クロンベルクアカデミーの環境、音楽祭とマスタークラスは、そのために役立っています。フェスティバルというのは元来、そういうものでしょう」

2023年の音楽祭テーマである「A human being first」というテーマについては、「本質的なメッセージだと思います」と答えた上で、こう語りました。

「音楽家という職業について、一部の若者が持っているような『自分は才能があるのだから、世間は自分に安定した職業や成功が与えてくれるはずだ』という考えはナンセンスだと思います。

私たちは音楽家である前にまず一人の人間であり、社会の一員です。社会というものを意識し、周りにいるすべての人の生活をより良くするために、どのような影響を及ぼせるのかを考えるべきなのです。

今までに多くの音楽家がさまざまな社会的プロジェクトを行ってきました。私自身、ボストンで『食べ物のための音楽(Music for Food)』と呼ばれる活動に参加しています。音楽家がサービスを無償で提供することで、飢餓に苦しむ人々に食事を提供する団体へ利益を寄付するというものです。素晴らしいアイデアだと思いますし、何百万人とはいいませんが、多くの人々に食事を提供することができています。その他、音楽を聴く機会のない子どもたちに生演奏を届ける活動にも取り組んできました。

もしも私たち一人一人が周りの10人の人生に影響を与えることができたなら……もっと良い世界にいられるはずですよね」

音楽という芸術に身を捧げながら、自発的に社会とつながりつづけること。変化の激しい時代を音楽とともに生きてきたヴァイオリニストの目線は、過去ではなく未来へと向いていました。

受講生たちの晴れの舞台

全てのマスタークラスが終わる10月1日。受講生の中からとりわけ優秀な学生には特別賞が贈られ、記念コンサートが開かれました。

2023年には、ヴァイオリンとヴィオラのマスタークラスの受講生が対象の6つの賞が用意されていました。

その中には、ヴィオラの今井信子先生や、ヴァイオリンの世界一の指導者と呼ばれていたアナ・チュマチェンコの名前を冠した賞もあります。この2つの賞は、今井先生やチュマチェンコの演奏家・指導者としての偉大な功績を讃えるために創設された賞です。

2023年の『今井信子賞』を受賞したのは、ヴィオラのノガ・シャハム(Noga Shaham)さんとサオ・スレーズ・ラリヴィエール(Sào Soulez Larivière)さんでした。ラリヴィエールさんは、2022年の東京国際ヴィオラコンクールで3位を獲得しており、日本ともつながりのあるヴィオリストです。

『アナ・チュマチェンコ』賞の受賞者は、ジュリアード音楽院卒のクララ・ニューバウアー(Clara Neubauer)さんとメニューイン音楽院卒のチェ・ソンハ(SongHa Choi)さんでした。

この他、芸術的なポテンシャルが際立っていたヴァイオリンの受講生に与えられる『ヘッセン王子賞(Prinz von Hessen-preiz)』、Bad Soden Jurgen Frei 音楽財団からのManfred Grommek賞などの賞金として、それぞれ5000ユーロが授与されました。

10月2日の受賞者のファイナルコンサートでは、これからの音楽界を担っていくだろう才能あふれる若手たちがマスタークラスの成果を披露しました。この公演は例年、とりわけ注目を集める人気公演のひとつです。

日本人ピアニストが大活躍

マスタークラスに欠かせないのは、ファカルティと受講生たちだけではなく、コレペティトゥアを務めるピアニストたちの存在です。

今回のマスタークラスにおいても、ピアノが必要なレパートリーでレッスンを受講する学生たちと共演する役割を担うコレペティトゥアが、各ファカルティの専属ピアニストとして参加しました。

2023年のコレペティトゥア6人のうち、日本人ピアニストが4人を占めました。フリード先生のクラスを担当した青木美樹先生、マルティン先生担当の橋場めぐみ先生、ツィマーマン先生担当の小口真奈先生、そして今井先生担当の占部由美子先生の4人です。

いずれの日本人コレペティトゥアも、欧米の教育機関や演奏シーンで活躍しているピアニストばかり。ぴったりと息のあったピアノ演奏で、マスタークラス受講生たちの深い学びを支える姿が印象的でした。


次回の記事が、連載の最終回です。フェスティバルの盛り上がりが最高潮を迎える後半プログラムや、クロンベルク友の会の会員限定のスペシャルコンサートのようすをご紹介します。

(つづく)

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